ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

果実の王様「ドリアン」

2012.06.22

今月はタイでの滞在が10日間にもなっている。

この間、部屋のクーラーから水漏れが起きて、床に水がポタンポタンと。

これは冷房をガンガンかけているための水滴なのか、それとも配管からの水もれなのか? 

ともあれ工事人を呼び、早く直してもらおう。

さて週末、外出した際に果実の王様「ドリアン」を買ってきた。

この季節はドリアンの収穫期なのであろうか、街中では荷台にドリアンを山のように積み上げ、横で鎧のようなぶ厚い皮をナタで割り、熟れた中身を取りだし売っている。

ドリアンは値段が高いといわれるが、それほど高いとはここでは感じない。

男性のこぶし2つほどで180円程度である。(しかし、屋台で麺を食べれば80円ほどで
ある物価のことを考えれば、高いのかも知れないが・・)

そこで、1つ買って帰ってきた。

雨が急に降り出したので、急いでタクシーに乗ったところ、運転手が「臭いなぁ・・・」と不満な顔で後ろに座った私の顔を見る。

原因はドリアンの匂いだ。

ラップに包まれたものをビニール袋にいれ、これをナップザックに入れているのだが、
それでもプーンと匂ってくる。

運転手は「まずい客を乗せたなぁ・・と」後悔しながら、しっかりと冷房の効いた車内であったが、急いで窓をあける。

すると熱い熱風がワァッーと入ってくる。

しばらくすると匂いも消えるが、暑いので窓を閉める。

するとまた匂いが充満。

高速道路では窓はずっとしめっぱなしなので当然、運転手はムッとした顔をし続ける。

一方、私はあまり匂わない顔をして乗っていたのだが、心の中では「ああ、すまないことをしたな。注意して乗る前に後ろのトランクに入れてもらえばよかったな。私を降ろした後、他のお客が乗るのだろうから、そのとき社内が臭かったら、お客も嫌がるしなぁ・・・」と、申し訳ない気持ちになる。

そういった窓の開閉を繰り返しながら、宿まで戻ってきた。

ホテルに着き、多めにチップを払って車を降りた。

そして、エレベータに乗ると今度はそこでもしっかりと匂いが漂う。

「ああ、ここでもまたか!人が乗ってこなければ良いけれど」と、祈りながら自分の
フロアーにつく。

小走りで部屋に入り、早速テラスにドリアンを置く。

そして、「部屋に匂いが充満したらたまらないな」と思いながら、ナイフとフォーク、皿をテラスに持ってきて、そこでドリアンを食べ始める。

味はクリーミーで最高。

もし、この匂いさえなかったら、世界中の人が大好きになるだろうに。

誰かそういった新種改良を行ってくれないものかな・・・。

政治言葉のあいまいさ

2012.06.15

「今年の夏はまた暑いのかな?」

これは気温のことを言っているのではありません。

電力使用制限が出るのかどうなのかという意味です。

先日、日本では原発稼動しない場合は、最大2割ほどの電力不足になるのではと報道し、企業はもとより庶民の不安をあおりました。

そんな中、政府は大原原発の安全性を確認したとして「再稼動することが妥当」といった判断をしました。

これを聞いて皆さんはどのように思われたでしょうか?

私にはこの言葉の意味がさっぱりわかりませんでした。

なぜって、この「妥当である」言うのはどういう意味なのでしょうか?

「安全だから稼動する」という意味なのでしょうか?

つまり、安全は政府が保証する。

逆を言えば「危険が起きた際はすべて政府が責任を負う」という意味なのでしょうか?

庶民が知りたいことは「安全である!」という宣言であり、これがあってこそ始めて
「それならば稼動に賛成」といえるのですが、こんなわけのわからぬ「妥当である」と、いった表現で生命に係わるような判断などは出来ないですよね。

本当に政治言葉はずるいと感じてしまいます。

「まさに政治って言葉遊びなのかとさえ思ってしまいます。

私は「我々は責任のない政治など誰も求めていない」と大きな声で言いたいです。

PS:
韓国では雨が降らず水不足、暑い日が続いています。そうした中、政府はドアを開けクーラーをどんどんかけて冷気を外に出し、道行く人に「うちの店は涼しいですよ。入ってください」と、いった客引きのための過大なクーラー使用をしている店の監視を強めました。
クーラーをかける店はドアを閉めて冷気を逃がさないようにするように通達しているそうです。こうして、少しでも電力の消費を抑えようというわけです。

神社は何故高いところにあるのか?

2012.06.08

神を信仰する人達。

それは自分がこの世で幸せな人生を送れるように、そして来世でも幸せになるようにと願い、日々祈りをささげているのでしょう。

最近、ふと気がついたことがあります。

祈りをささげる神が置かれている寺や神社は、山の中も含め案外、私たちの住んでいる場所よりも高い所にあるということです。

ごく私たちの周りにあるような神社でもその場所まで行くのに、階段を何段も上ったり、何十分も歩くような場所です。

「なぜだろう?」ふと、考えました。

それは、一つには「神様が高いところから我々を見つめている」と、いったことであろうと思いますし、また「神様は静寂な場所で精霊の集まるとこにおられる」と、いったことが一般論的な考えであるのでしょう。

でも「もしかしたら・・・」と、思ったことがあります。

それは「皆の幸せを願う」ということは、「皆の健康を願う」ということです。

健康な心身があってこそ、すべての幸せが始まります。

つまり、毎日神社に行き数百の階段や坂道を登ることで足腰を鍛え、心臓を強くし、きれいな空気を吸うことになります。

ひょっとしたら日々の信仰により、心を清めると共に、こういった場所に通うことで健康な体作りを私たちに与えているのかもしれないと思ったのです。

神様はなかなか、よく考えてくださっているものだなと。

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