「何か面白いことはないか?」と考えるのは子供だけではありません。
大人も、自由な時間があれば当然こういった思いになります。
でも、子供のようにすぐに「あれして遊ぼう」など、思いつかないのは何故でしょうか。
子供の場合は遊び仲間も多いので「今から遊ばない?」とすぐに連絡を取り合って、相手がみつかったらすぐに飛び出していきますよね。
実際、私もそうでした。
会ってから遊びの内容を決め、決めたらそれに必要な人数を集め、遊びまくっていました。
缶けりや山探検、川にも釣りによくいっていましたね。
海が近かったので浜辺で砂の城を作ったり、潮溜まりにいる魚を捕まえたり、ドッチボールやサッカーをやっていました。
夏の初めは海の家が建ちだすので、その屋根の上を駆けずりまわって鬼ごっこです。(でも、屋根が抜けて友達が下に落ち大きな怪我をしたので、それ以来やめました)
怪我もよくしましたね。
海辺に落ちていたガラスを踏みつけざっくりと切ったり、木登りをしていたら枝が折れて動けないほど体を強く打ったりしましたが、これら全ては自分が楽しいことをしているときに起きることばかり。
痛い目やこわい目にあった思い出はたくさんありますが、今思えば当時は色々と楽しいことばかり考えて遊んでいたのでしょうね。
その遊びもほとんどお金もないために、自分達で色々なものを作り試しました。
野良犬に追いかけられたとき、その防御策として台所からこしょうや七味唐辛子を取り出してきてティッシュに包み、これを犬の鼻目がけで投げたらどうなるかとか、海に深くもぐるために浮き輪にホースを結びつけて片方をくわえて潜水艦が出来たといったり、足ひれ(フィン)を買うお金などないので、ベニヤ板を切ってそれに穴を開け、そこに紐を通して足に結びつけ泳いでみたりもしましたね。
これはベニヤ板がしならないのでまったくダメ。
そこで、板を半分に切ってそれをゴムで連結したりして、何でも自分で作ってやってみては、失敗ばかりしていたことが懐かしいです。
でも、大人になるとこういったことをしなくなりました。
どうしてでしょうかね。
好奇心が弱くなったためなのか、常識や知識が増えたためなのか?
いやそうではないでしょうね。
やはり、好奇心を満たそうとしたら時間がどうしても必要ですから、大人になるにつれてそこまで時間を作れないような生活になったからなのでしょうか。
大人になってからはそういった子供時代の好奇心から生まれる面白さを自分で作り出すということから、すでにあるものを発見しに行く(例えば旅行や展示会、博覧会に出かける)行動に変わってしまったように感じます。
でも、これでは子供時代のような痛い目や失敗もありません。
ですから、あのころのような衝撃的な感動は少ないです。
やはり、自分が主人公の面白さとはまったく違います。
「感動」を求めるには何かやはりその反対側にある心の状況、つまり辛さ、厳しさ、痛みや苦しみなどそういったものがなければ創ることの出来ない事なのかも知れません。