2009年6月28日。
私は卒業した高校へ来ていました。
正門を入って1kmほどのプロムナード。
左右には20m以上に大きく育ったメタセコイアがきれいな緑の葉をつけてそびえたっています。
まさに「冬ソナ」の初夏バージョンといった感じ。
その小枝からこぼれる光を浴びながら私は高校時代を過ごした寮や校舎を見ながら懐かしさを胸にゆっくりカメラ片手に歩いていました。
ここは都立秋川高等学校。
その閉校が今年6月30日に決まり、その地は今後、商業地区として生まれ変わる事となりお別れ式が開催されたのです。
私はこの高校を第7期として卒業、その後34期まで続きました。
その間、三宅島噴火の際は島の小学生から高校生にいたるまで、すべてここで受け入れをおこなった事は世間でも知られている事と思います。
なぜ、高校の話をするかと言うと、この高校は非常に特徴があった高校であり、少しでもその良さを皆さんに知ってもらいたかったからです。
まさに私が熱き青春を送った場所なのです。
さて、この都立秋川高校は東京の西のはずれにあり、1965年に都立の全寮生高校として開校致しました。
海外に住んでいるが日本で教育を受けたいといった者たち、帰国子女、あるいは教育環境が十分でない僻地の者たちのために作られた特殊な学校です。
ですから、入学する者たちも様々。
日本語がうまく話せないもの、一般の日本人とは感覚の違った者たちが日本のみならず世界中から集まりますから、やはり変わった刺激と本当に面白い生活が送る事が出来ました。(但し男子校)
イギリスのパブリックスクールを模範に文武両道を目指し、グランドも3つ。
構内には職員宿舎・保険病棟・700名収容の食堂・50人風呂・テニスコート・体育館・武道館・相撲場・プールと施設とすべてが完備されています。
生徒は全員、運動部に所属することが義務づけられています。
また、学習時間も決められており、毎日19:30から22:00まで机につくことになっています。
しかし、そこは大食家の若者たち。
夕食を食べてもすぐおなかが減ります。
こういう時のために20時から21:30までうどん屋さんが来てくれます。
これを食べに行くことは例外的に許されていましたので、私はお腹がすいたといっては友達を誘い勉強をさぼってよく食べに行ったものです。
朝の6時は起床ラッパ(ラッパといっても私の時代はすでに生から録音にかわっていまいましたが)で起床。
そして、学校を終えても消燈の11時まで、365日3年間団体生活が行われます。
ですから、皆なんでも知っています。
すべて人間性がばれてしまいます。
そして、悲しいこと、つらいこと、そして楽しいことすべて皆で分かち合い、あるいは乗り越えてきました。
親が近くにはいませんからね。
そういった、一般の高校生が体験できないほどの多くの思い出をもった卒業生たちがこの最後の別れに母校に集まったのですから、久々の仲間との再会の喜びの陰に、社会変化にともなうこの閉校はいかんともしがたい悲しみが漂い、つらい気持ちで満ちていました。
閉校セレモニーを終え校旗の降旗とともに歌ったなつかしの寮歌。
校歌は忘れても寮歌は忘れません。
力一杯歌いました。
歌は3番まで歌は続きますが、いかんせん37年前のこと。
すでに一部の歌詞を忘れてしまった私は1番を3回くり返しました。
でも、うれしかったなあ〜。
なつかしい思い出が走馬灯のように浮かぶとともに、悲しみがわきあがってきます。
本当にすごい最高の高校でした。
こんな学校はないというほどの思い出をたくさん創ってくれた学校でした。
まさに私の青春。
入りたくて、入りたくて入った学校でした。
今後もこのような全寮制の学校が出来、子供の性格さえ合えば、是非とも入学させたいと思えるそういった学校が出来たら皆さんも子供たちに教えてあげて下さい。