昔から「もっと英語が出来ればなぁ・・・」と念仏のように多くのサラリーマンが嘆いてきましたが、今や嘆くなどと言った悠長なことは言っていられません。英語が出来なければ、今後の社会生活が成り立たないといった時代が近づいて来ています。
では、どうすればいいか。
やはり、時間がかかりますが、強い日本を作っていくためには教育なのでしょう。
日本では中学から高校までの6年間と大学に入ってからの教養課程で2年間ほどの英語教育がありますが、なぜこれほど長く英語を勉強しているのに英語によるインターネット情報を使いこなせる力がつかないのでしょうか? 皆さん、変だと思いませんか?
私は文部科学省の指導内容に問題があると思っています。すべての学校に同じような教育指導を促す、つまりは均一能力を持った日本人の育成の間違いとでも言うのでしょうか。これでは今後、国は繁栄しないと思います。少なくとも今の時代では・・・。
確かに、先進国に追いつけ追い越せといった時代においては、頭が良く均一能力を持った人をいかに多く育てるかが国として必要だったのでしょう。しかし、今は秀でた能力を更に伸ばしていくといった英才教育的な方針へと変えなければならないと思います。
英語が大事だと信じる家庭や生徒に関しては英語に触れる環境をどんどん与えていく。必要でないと思う人はこの環境に入る必要はない。といった割り切った教育指導があってもいいと思います。
ですから、英語だけで授業をおこなう小学校・中学校・高等学校をどんどん作っていく。この教員は広く海外から呼び込んでいく。別に先進国の教員でなくてもいいと思います。
でも、「各国の英語では発音が違うから・・・」と、つまらないことを気にする方がいます。発音がどうであれ、まずは英語に対して抵抗感がなく、自分の意見を英語で言え、英語のニュアンスがわかりコミュニケーションが出来る語学力をつけることが大切であると私は考えます。こうしたことに、なぜきれいな発音が必要なのでしょうか?
発音がきれいであることは、必要条件ではないのです。
このような学校をどんどん作っていけば、学校の価値(教育の価値)といったものが社会に認識され、世界で働ける人間がどんどん輩出されます。その学校には入学希望者が殺到して経営もますます良くなるでしょう。
このように特徴ある学校づくり、言葉を変えて言えば「ある目的をしっかり持った学校作り」ということが世界に対抗していくために重要なことになると思っています。
もし、そういうことにお金がかかり家計として大変であるというのであれば、こういったことを行う家庭には税制上の優遇措置を与えるなどしてもいいのではないでしょうか。(税制も自分達がしている事は国を良くする事なんだと思える事柄に対して優遇してあげれば、国や税金のあり方についても国民の理解を得やすくなるでしょう。)
日本政府は、もっと世界を見据えた教育のあり方について考えてもらいたいと思っています。