ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

子供への席譲り

2015.01.09

新年明けましておめでとうございます。

今年も皆様そしてご家族の方がお元気で、いい年となることをお祈り申しあげます。

さて、タイで公共の乗り物、たとえばバスや電車・BTSに乗っていつも思うことがあります。

それは小さな子(幼稚園ほどの年齢の子供)が乗ってくると、大人は必ずといっていいほどすぐに席を立ち、子供に席を譲る点です。

この行為を皆さんはどう考えるでしょうか?

多くの方は「なんてタイの人は優しいのだろう・・・」と思われることと思います。

実際に私も優しい行為だと思います。

しかし、私はこの行為は褒める様なような事ではないと思っています。

むしろ、出きれば「すべきでない行為」とさえ思っています。(赤ちゃんを連れた方であれば当然のことですが席は譲ってあげるべきですが)

それは、子供は大人と同じように1時間ほど立ちっぱなしのでも疲れるものではありません。

もちろん、バスや電車がガタガタと揺れて危ないようであれば、親が子供に「しっかりとお母さんをつかんでいるのよ。それでないと転ぶわよ」と言い聞かせればよいのです。

もしも、子供がこれを守らなかったことで倒れたりしたとしても、それはそれでよいと思います。

子供はお母さんから「しっかり握っていないからいけないのでしょ!」としかられ、それ以後はお母さんの言ったことをしっかりと守ることになるでしょう。

これが教えと思うのです。

また、子供もこういったように揺れるバスなどでは、どうすればフラフラせずにいられるかといったことを自分なりに考えられえるようになりますからね。 

つまり、こういったことを通じて自然にバランス感覚を養うこともできるというわけです。

席を譲ったりして、せっかくの学びのチャンスを奪ってはいけないと思うのです。

ですから、私は「子供をイスに積極的に座らせることは子供の教育にいいことはない。」と思っているのです。

この考え、皆さんはどう受け止めるでしょうかね?

「信じる」ことと「信頼」すること

2014.12.26

「信じる者は救われる」とか「人を信じると言うことは、 悲しみを知ること」など、世の中には「信じる」という言葉に対して古今東西、色々と格言がありますが、どれを見てもそれなりに納得させられるものあります。

これもその内容が自分の経験と照らし合わせてみた際、思い出されることがたくさんあるからなのでしょう。

今年も「人の力」についていろいろな本を読みましたが、ほとんどの場合「信じる」といった要素が必ずあるように感じました。

「今から自分がやろうとしていることはきっと世の中のためになる」「自分がこれから選択する道が、たとえ間違いであったにせよ決して後悔はしない」「自分を信じてこの道を選ぶ」といったように、やや宗教のニュアンスが入った心の持ち方があるように思ったのです。

「人はあなたを信じていますよ!」と言われれば「こんな私を信じてくれるのか・・」と歯がゆく思うものの、やはり大変嬉しいものです。

きっと皆さんもそうではないでしょうか。

なかなか人は自分自身の評価が出来ないものですからね。

でも、最近感じたことがあります。

「信じること」と「信頼すること」この二つの言葉には大変大きな差があるということです。

何故こんな事を思ったのかは自分でもよくわかりません。

ふと気が付いただけです。

「信じる」というのは自分から出ていくエネルギーであって「信頼」というのは「他人から与えられるエネルギー」であるということです。

「信じる」ということは自分の思った事、考えたことが実現されなかったり、裏切られたりするようなことが起きたとしても、それは相手側(自分の対象側)に原因があるものではなく、すべて自分に責任があるということです。

ですから、この信じる」という言葉は相性が合っていう言葉なのでしょうが、実際は自分自身つまり自分の心に対して発する言葉だと思いました。

一方、「信頼する」は「信じる」とは違い、相手側に対して自分の信じたことを投げかけ、「この私が信じた内容はあなたに任されているのですよ!それも成功することを…」と言った内容であると思うのです。

ですから「信頼する」といった言葉は、相手に自分の望み・夢や命をゆだねている時に使われる言葉ではないでしょうか?

人は成長するにつれてこの言葉を多くの方から言ってもらえるように精進せねばならないと思ったのです。

人から「僕は君を信じるよ!ではなくて「僕は君を信頼するよ!」という言葉をいただけるような人生を送らなければいけないと思ったのです。

人は頼られた時にやはり大きな力が出て、また幸福感を感じるのですね。

「頼られる」というのは互いが紐で結ばれた状態ですからね。

家族の愛もこうした信頼という絆から創られているのだと思うのです。

さて、2014年もこのblogで終わりますが、自分としては「この年末になってこういった生きる上で大切なことに気が付いてよかったな。」と自己満足しています。

最後に、今年も色々なことがありましたが、その度に全力を出して後ろを見ることなく乗り越え、また健康で一年を送ることができました。来年もまた色々なことにチャレンジしようと思っています。

皆様も良いお年をお迎えください

「ホーキンス、宇宙を語る」の読書の合間から  バンコクより加藤

想いは体も動かす

2014.12.19

先週は友人の衆議院選の応援に行っておりましたが、ここで改めて気づいたことがあります。

言葉に感銘を受けて人は涙を流したり、声を上げたり、心がジーンとすることはよくあることです。

つまり外から受けた言葉により自分が動かされてしまうということですが、ではこの逆で自分の言葉で自分が動かされてしまうといったことはあるのでしょうか?

ちょっと、この内容は考えてしまうかもしれませんね。

でも、こういった事はあるように感じます。

ただ、私たちが気がついてないだけのような気がします。

それを今回の選挙応援でしっかりと感じ取りました。

候補者と選挙区を回って事務所に戻り、引き続き私は電話で有権者の方へ候補者への支援をお願いするのですが、話す相手が目の前にいなくても自然と受話器を持ったまま、頭を下げてしまう行動に出てしまうということです。

「こちら●●選挙事務所ですが、このたびの衆議院選では皆様のために●●は精一杯頑張っていますので、何卒宜しくお願いいたします」といった内容の依頼をするわけですが、心の底からこれをお願いしたいといった気持ちが出ると、自然と頭が前にたれてしまうのです。

不思議ですよね。

決して体は起きたままではなく、後ろにそるのでもなく頭をたれた姿になります。

これはどうしてでしょうか。

お願いするときには頭を下げるといったことを意識せずにしてこの格好をしています。

電話をかけ終わるたびに「不思議なものだなぁ・・」と思いました。

自分の述べた内容でそういった行動になってしまうのか、それとも必死な思いからそういった行動を引き起こすのかはわかりませんが、私としてはこれはきっと脳がコントロールしていることではないかと思っています。

「強い想いが自分を動かす」なんだか素晴らしいことですね。

目に見えない何か(エネルギー?)がそういった行動を起こさせるのでしょうかね。

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