歳をとるにつれて年齢というものを感じてきます。
皆さんはいかがでしょうか?
私が初めて感じたのは34・35歳のころだったと思います。
残業が続いていたある日、「今日は疲れたな・・」といった事を27歳ごろの自分を思い出しながら感じました。
今まではそんなことを仕事の中では一度も感じたことがなかったですから、「年齢かな?」と初めて思いましたね。
それからしばらくは感じたことはありませんでしたが、50歳を過ぎてプールで背泳をしていると、どうも腰が沈みがちになります。
30代の時はそんなことはなかったので、これは「筋力の衰えなのかな?」と思いましたね。
そして50代の半ばになりタイでマッサージを受けた時の事です。
強めに腰を押されたり、上に乗り踏みつけられたりとかなりきつかったのですが、痛みを我慢し2時間受けました。(一緒に受けた友人も何度も「痛い、痛い」と言っていましたので、やはりかなりきつかったのでしょう)
そして、当日はなんともなかったのですが、次の日ベッドから体が起き上がりません。
腰の神経を痛めたようです。
やっとのことで体を起こしたものの10mも歩けません。
10分も立っておくことも出来ないひどい状態です。
これは「昨日のマッサージを受けたのが原因だ」とすぐに感じましたね。
でも、一方では筋肉の衰えのために「耐えきれなかったのかな?」とも思いましたね。
これが治るのには8ヶ月ほどかかりました。
その後はちょっと違った現象から年齢を感じ出しました。
少し先の横歩道の信号が赤になりかけていたりしても、頑張って走って青信号のうちに横断歩道を渡ろうといった気持が起こらなくなりました。
これは気力の問題かもしれませんし、「そんなに慌てなくてもいいではないか?」といった行動の変化かもしれません。
これは前述してきたような筋力の衰えとは違い、気力でしたので、自分でも意外でしたね。
そこで、「衰えの中に気の衰えも出だしたのかな?」と、このちょっとした行動を通じびっくりしましたね。
その理由は、私は30歳まで合気道を一生懸命やってきていたので「気」に対し一般の方よりも非常に関心を持っていましたから、生活においてはいつもプラスの気を持つように心掛けていました。
ですから、つらい時があっても「絶対に俺は成し遂げれる」と信じ、「神が私への試練として与えたものだ」とか「この苦しみを楽しもう、将来の楽しみを感謝できるように」とか、とにかく楽天的に物事を考えるようにしていました。
ですから、人の裏切りやごまかしを受けても「所詮、人は弱い者だ・・」と考え、「そのことを憎らしく思い続けることは、自分の心を腐らせることになる。」と考えるようにし、「許す」というよりも「忘れる」ことに専念していました。
ですから、今でもその心は同じです。
自分を押し付けるようなマイナスの気(いわゆるゆる消極的な気)は私にはありません。
いつも気を発散させ続けようと心がけています。
このため、子供たちへの教育も同じです。
しかることは人としての道徳に欠けた行動をした時だけと言ってもいいです。
試験結果や勉強の事で怒ったことはありません。
いつも子供たちを注意する時は、彼らに考えさせることをまず意識して言葉を選びます。
つまり、「パパはこう思うけど、君はどう考えるかな?よく考えてみてごらん」といったようにです。
そして、子供がふさぎこんでいるような時(心がマイナスの気で占領されている時)には声はかけません。
かけても彼らに受け入れる力がないですからね。
ですから、心の気がプラスになっているかどうかを確認してから行います。
このため、子供たちは私に怒られたといった記憶はほとんどないと思っています。
また、「出来ない」「だめだ」「嫌いだ」「難しい」などといった言葉はつかわないようにしています。
使うのは「出来る」「可能だ」「好きだ」「簡単だ」といった言葉です。
これは彼らにプラスの気を与えるためです。
すると、彼らは自分で自分のしている行動、または、これまでの行動をよく考えその結果が今の自分であるのだから、それは認めるべきだ。
もし、自分が今の状態を満足できないなら、今後は自分でそういった結果を起こさないような行動をとるようにしようというと、彼らは頑張りだします。
つまりこうすることでも失敗ということがあっても、それは失敗ととられなくなり「自主性と責任感」が彼らに生れ出ます。
ですから、私は子供たちに対し「自分の人生は自分で創る」といったように、個性と自主性をもてる教育をもっとも大事にしています。
また、子供たちにも常にプラスの気で考えるように育ててきました。
子供や後輩を育てるにおいては、まず長所を伸ばし、短所は後回しです。
短所については注意だけです。
その理由は短所も逆から見ると長所になりますから、それをうまく生かすことを考えるようにしているからです。
「気」、これは見えないものです。
でも、人はこれを感じることができます。
理由はわかりません。
決してロボットにはできないことです。
どんなに人工頭脳技術が進んでもこれはできない事です。
だからこそ、我々はこれに気が付かず行動し「何が人間らしい」と言えるのでしょうか?
私はいつもそう考えて自分の行動(加藤裕彦としての行動)をしています。
このため、子供たちが理屈のない行動をしても、彼らが社会道徳に反しない行為であれば、それを時としては黙って見ています。
多分、それは彼らの感覚から出た結論としての行動なのでしょうから。
ですから、よく考えた上で人間としてその行動を行った子供たちの決断を尊重します。
そして、その結果を彼らがどう受け止め、どう利用していくか、見つめています。
人間としての「成長」とはそういうものではないのかなと思っています。