ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

家族の結束。

2008.04.25

先日、仕事で台湾に出張してきました。

この間、長年の友人である台湾人のAさんと行動をともにした際、色々な話をしました。
特に印象深かったのは『家族の結束』についてでした。

彼は44歳。自宅には家族は妻と子供が2人。それに彼の両親2人の合計6人住まい。

彼はメーカーに勤めるごく一般的なサラリーマンであり、奥さんも働いています。帰宅は19:30頃。奥さんは銀行にお勤めで、帰宅は彼よりも遅く21:00頃。

ですから、お部屋の掃除・食事の支度、そして子供の世話は彼らでは出来ません。

それをすべて行うのは彼の両親、おじいちゃんとおばあちゃんの仕事だそうです。

両親はお金を稼ぎ、家事と子供の面倒は老人の仕事といったように、自分がその時点で家庭に対して出来ることをするといった考えなのでしょう。

また、毎週末、自分の別荘で家族全員との時間を過ごすそうです。

日曜日の午後まで別荘でのんびりして帰宅します。

そして、家に戻るとその後は兄弟(兄が2人)も近くに住んでいるということで、昔から続いている兄弟の家族を全員自宅に呼び、総勢13名で晩餐会をやるそうです。

こうした親族の晩餐会が毎週ですよ!すごいですね。

私はこれを聞き、Aさんの家族の結束と言うのは本当に強いのだなあ〜。これは今や日本ではほとんどないな。子は親を尊敬し、親は子を愛す。そして、親族が皆このように幸せに生きていることを親に感謝し、互いに助け合って生きていくと言った「道徳」と「孝」を、こうした日頃の晩餐会を通じて子供のころから心の芯まで教え込んでいるのだと思いました。

なんだか本当にうらやましく、また素晴らしい人間的な家族愛を感じさせてくれました。

日本では核家族が進み、おじいちゃん・おばあちゃんと一つ屋根の下で生活している人は非常に少なくなりました。

実際、両親と暮らそうにも家にスペースがないといった環境問題や、おじいちゃん・おばあちゃんも年をとって子供の世話になるのは申し訳ないといった気持ちなどで一人暮らしの老人が増えています。

こうした状況の中で、徳・孝をもった人間形成が出来るのか疑問に感じます。

今や日本は学力的にも落ちてきている中、人間形成といった点においても差がつけられていっては今後どうなるのかと心配になります。

街を歩くと、布がボロボロに破れ、腰までおろしたダボダボズボンをはき、シャツのボタンをだらしなくはずして道路の真ん中をワサワサと歩いている若者達。

電車の中では老人が立っているのもおかまいなしに手鏡もってメーキャップに没頭する若い女性。

本当にこれでいいの?

日本の精神はどこに言ってしまったのと問いただしたくなるのは私だけでしょうか?

子供への教育。

2008.04.18

ここ数年、子供の犯罪の内容が変わってきていることは皆さんもなんとなく感じておられることと思います。

「昔は、こんなひどい事件は子供の世界では起こらなかったのに、今の時代はどうなっているの?」と悲観する前に、『自分の子供』ということについて考える必要があると思います。

私が思うに、日本のお母さんは子供に対して優しすぎるように思います。

まるでペットのようにひたすら可愛がるといってもいいでしょう。
とにかく子供に危険なことをさせない、ちょっとしたことで欲しい品物を買ってあげる、など。
子供をマユに包んで育てているように思われます。

でも、これでいいのでしょうか?

我々は、子供たちに『この世は戦い』であるという厳しさ・辛さを教える必要があります。

そして、その戦いのために『考える』ことが何よりも重要であることを教えるべきであると私は信じています。

つまり、親は子に生きる力を教えていくべきなのです。

しかし、現実はちがいます。

今の教育は記憶重視。考える力を鍛えない。

たしかに、ある程度は覚えることは必要なことでしょう。

しかし、なぜ鎌倉幕府の出来た年代を覚えさせる必要があるのでしょうか?

それよりもなぜ鎌倉幕府ができたのか、その鎌倉幕府は室町幕府とどのように違った政治を行ったのか、そして、それはどのような社会変化を起こしたのかなどといった時代や文化を教えることの方が、もっと重要なことと思います。

これを知ることにより一つの歴史的なデータが流れとして記憶され、このことが将来の自分の考えをまとめる際にきっと役立つように思うからです。

たくましく生きるには『考える』力がないければいけないということを私は言いたいのです。

その考えが間違っていたとしても、なぜそれが間違ってしまったのか?といった原因がすぐ解るような思考方法が必要と思っているからです。

答えにおいて「そう言われたから。そのように書いてあったから。」では今後全く役に立たないことを親は子供に教育していくべきです。

時代は変わったのです。

追いついて行くのではなく、生きる道を自分で切り開いていかねばならない時代となったのです。

知識から知恵の世界に変わったのです。

知識は小さなチップにとって変わったのです。

また、「子供の教育はすべて先生任せ」というのが日本の特徴。

「いい学校に子供を預ければいい教育が与えられる。」というものではないということを親はしっかり認識すべきなのです。

エレベーター式の付属学校が増えていくとともに、戦いを避ける教育の増大。

そして、これに群がる親たち。

しかし、この行動が今後の日本の成長にどれほどのダメージを与えるかは早いうちに明らかになってくることでしょう。

親がしっかりしなければ、明るい国づくりは出来ないのです。

国や人任せでは手遅れなのです。

このことは孔子も論語の中で述べています。

私が亡命して初めて衛の国にいったのは56歳の時であった。弟子の由有に「この国は人口が多いね。」といったら由有が「人口が増えたら何をなさいますか?」とたずねるものだから「経済を豊かにするね。」と答えた。

すると今度は「経済が豊かになったら何をなさいますか?」と聞くものだから、今度は「もちろん教育だよ。」と答えた。

タイの屋台は楽しいよ。

2008.04.11

タイの住みやすさは世界的にも有名だが、その中に食の豊かさ・安さがある。

山の幸、海の幸、果物も豊富。

食にウルサイ日本人の胃を十分満足させてくれる。その上安いときているから最高だ!

例えば、街中の屋台に座り定食(ご飯に炒めもの)を頼めば100円。

そして、これを大衆的なレストランで食べれば200円。

さらに、ホテルで食べれば400円。

屋台価格を1とすれば、クーラーのきいたレストランでは2倍、そして高級な場所となれば4倍といった感じ。

だから、レストランの目の前で屋台を開いていても、レストランの者は何も言わない。

たぶん、お客を屋台にとられるなどと言った考えではなく、お客の種類が違うと考えているのであろう。

今日も私は朝食のため屋台へ。

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ホテルで食べる方が多いいが、たまには屋台で庶民の姿を見ながら食べるのも好きだからだ。

一般的に『屋台は汚い、お腹をこわす』などと思われがちであるが、私はそんなことはないと思っている。

炒めもの、湯でものであれば火が通っているから大丈夫と自分では思い込んでいる。

でも、ここで注意するのは水。

水だけはミネラルウォーターを持って行き、屋台で出される水は決して飲まない。

料理の注文方法はきわめて簡単。

屋台の店主に、台車の小ケースにかざられた食材をいくつか指差し、これを炒めてくれるようにジェスチャーするだけ。

その時に忘れてはならないことはあまり辛くしないように注文すること。

これを言わずに黙っているとタイ人の辛さに合わされ料理されてしまうので、日本人にとっては辛すぎ・汗をかきかきの食事となってしまう。。。

でも、これだけ多くの屋台が道沿いに並んで商売していると、自分の屋台に特徴づけないとお客が来ないのではないかと心配になってくる。

そこで私は馴染みの屋台のおじさんに『この店はタイで一番おいしいお米を使用しています!』と看板かけてみては。と言っておいた。

次回、どのくらいお客さんが増えたかどうかが楽しみだ。

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